師を訪ねる。
昨日、師の自宅へ久しぶりにお邪魔した。
今の仕事を目指したのも、こういう大人になりたい、こんな生き方をしたいと思わせてくれたのもこの師です。
われわれの仲間うちでは、その師のことを名字で呼び捨てにするか、名字にさん付けで呼ぶかしていて、あまり「先生」と呼ぶことはない。
おそらく単なる『学校の先生』という目で見ていないのだろう。
師は長らくパーキンソン病を患い、ふるえを止めるための投薬をしながら生活している。
たまにリハビリ入院などもしながら暮らしている。
身体を動かすことが大好きで得意な人であり、仕事にもしていたくらいだから、もどかしさや屈辱感にも苛まれながらの生活だろう。
腰など身体の関節などの変形や硬直も見られるために定期的なストレッチやマッサージも必要だ。
われわれに心配かけまいと、そのための入院を黙ってしたりするものだから連絡が取れなくなったりすると逆に心配が大きくなる。
師の様子はどうだろうか、その確認のためにわたしたち弟子?たちは電話したり、今回のわたしのようにご自宅にお邪魔したりしている。
暮れに、わたしが連絡をすると返事がなかったため、その時はわたしが自宅まで押しかけた。
入院か?などと考え心配したが、離れて暮らすご家族と久しぶりに買い物に出ていたらしい。
元気ならよし、と年が明けたらまた出かける約束をして昨日に至った。
師の家に行くと、まず入ってくるのは油絵具の匂いだ。
師は絵を描く人でもあるので。
わたしが高校卒業の時、同期4人にハガキよりちょっと大きなサイズの絵をくれた。
師は、「あんな恥ずかしい下手な絵は捨ててくれ」と今でも言うがわたしたちにとっては宝物である。
師の家に行くと、コーヒーの香りもする。
師はコーヒーが好きな人だ。
昨日もわたしの到着の時間を見計らってコーヒーの準備をしてくれていたようだ。
わたしにはコーヒーの味なんかわからないのだから、別にいいのにわざわざ豆も選んで落としてくれる。
台所で準備をしてくれている師の戻りが遅いので、わたしがちょっと台所に顔を出すと身体の震えと苦闘しながら、慎重にコーヒーを注いでくれていた。
コーヒーを注ぎながら、「遅くなってごめんね」と申し訳なさそうに言う。
この姿を見たら逆に「手伝います」とは言えない。
チョコレートも出してくれた。
「これはとてもおいしいチョコレートなんだよ」と勧めてくれた。
『時間』を大切にするという生活は昔も今も変わらない。
コーヒーをいただきながら、ひと通りの生活の様子を聞く。
月曜の朝から日曜の夜までの生活スケジュール。
ヘルパーさんやトレーナーさんが来てくれる日や時間、麻雀仲間が遊びにくる日、買い物に連れて行ってもらえる日等々。
食事のことや通院のペースなども含めてだいたいのことは聞かせてもらう。
前回、お会いした時よりも表情も明るいのが良かった。
絵の話も聞かせてもらう。(もちろんわたしには絵心なんてものはないのだが。)
実はもう15年以上預けている絵があるのだが、その話もさせてもらった。
あとどこを手直しすればいいのか、ちゃんと覚えている。
あとはわたしが取りに行く日を決めれば仕上げてくれるそうだ。
師の絵は登山もしていたので山が多い。
地元の山や川、そしてそこにある日本家屋など田舎の原風景のような作品が多い。
しかし、その中にもヨーロッパの山やエベレストなどの尖った、高い山を描いたものもある。
なぜなら、師は本気でエベレストを目指していた時期もあるくらいだから。
ネパールのエベレスト街道でキャンプをしていた時のスケッチを絵ハガキで送ってもらったのはやはりわたしの宝物である。
師の田舎の日本の原風景のような作品が好きな人も多いが、わたしは師の海外の山を描いたものが好きだ。
師が見上げた山。
師が命を懸けてでもチャレンジしたいと思わせた尖った山。
その絵から、わたしは燃えるようなエネルギー、情熱をもらえるような気がするから好きだ。
しばらくの間、自宅内のアトリエに置かれている絵を見させてもらった。
居間以外のすべての部屋に絵がたくさんおかれている。
わたしの好みの絵も何点か。
「好きなの持っていきな」
そのうちの一点をいただくことになった。
この山も師が「さぁ、やってやるぞ」という魂を込めて見上げた山だ。
だから、この絵が良かった。
あっという間の2時間。
身体が不自由になってしまったのは仕方ない。
しかし、それ以外のところではやはり『師』は『師』であった。
『師』に学び、わたしもそのうちの一人だが『師』の同業者となったものも多数いる。
中には役職にもつき、組織の顔として活躍するものもいる。
しかし、誰一人として師に追いついた、追い越したなどと思っているものはいない。
師は自分の弟子たちのことを「立派だ、立派だ」「がんばってるね」とうれしそうに話すが、そう言われるたびにわたしたちは「この人のようにはなれない」「まだまだわたしたちは先生の足元にも及ばない」という思いを強くして帰っていくのだ。
はたしてわたしはこの職業に就いて何を教えているのだろうか、何を伝えられているのだろうか。
『師』に会う度にこんなことを考えさせられる。
会えたうれしさの反面、会う度に自分の不甲斐なさも感じさせてくれる、そんな『師』だ。
『師の半芸に及ばず』
まさにこのことか。